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今回お届けするのは浅田真央の母親についての話題です。
浅田真央といえば当時天才フィギュアスケーターとして一世を風靡したレジェンド的存在ですよね。
幼い頃から厳しいスケート界で活躍し、愛くるしい笑顔でお茶の間を明るくする華やかな選手でした。
そんな浅田真央ですが実は母親が亡くなっているというのです。
一体死因は何だったのでしょう…
そもそも浅田真央の母親は一体どんな人物だったのか知りたいですよね。
そこで今回は浅田真央の母親の経歴や亡くなった理由・病名などについて詳しく調べてみました。
浅田真央を育て上げた母親は一体どんな人生を歩んできたのでしょうか。
浅田真央の母親はどんな人だったのか気になる!
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まずは浅田真央の母親の基本的なプロフィールについて詳しくお話しします。
日本をフィギュアスケートの演技で熱狂させた浅田真央、一体どんな母親のもとでその才能を開花させたのでしょうか。
母親の名前や生年月日、顔画像や経歴など詳しくお話ししていきますのでぜひ参考にしてみてください。
母親の名前や生年月日は?画像が見たい!
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まずは浅田真央の母親の名前や生年月日から。
浅田真央の母親は浅田匡子という名前だそうです。
名前の読みは「まさこ」「ただこ」など色々な読み方があるようですが、浅田真央の母親は「きょうこ」と読むとのこと。
雅な名前ですね。
そして匡子さんの生年月日は1963年1月2日。
生きていれば2020年現在57歳だったんですね…
まだまだ母親として奮闘できそうな年齢なので若くして亡くなってしまったことがとても悔やまれます。
匡子さんは顔画像も公開されているようなので、ここで見て見ましょう。
画像引用元:https://deai-wakare.tokyo/2017/04/12/asadamao-hahaoyatitioya2017/
綺麗な方ですね!
目元や口元など、浅田真央に似ている気がします。
母親はスケート経験者だったのか?
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浅田真央といえばやはりスケート界を牽引した存在という印象ですが、やはり母親・浅田匡子さんもスケートをやっていた過去があるのでしょうか?
あれだけ群を抜いた才能の持ち主である娘を育てたのですから、母親もかなりスケートが上手だったのでは?と想像してしまいます。
そこで浅田匡子さんについて詳しく調べたのですが、彼女がスケートをやっていたという事実は確認できませんでした。
あくまでも一般の女性だったのでしょう。
しかし、浅田真央がフィギュアスケートを始めたのには母親・匡子さんの過去が関係しているようです。
一体匡子さんに何があったのか…?
詳しく確認してみましょう。
母親が娘に託した想いとは?
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浅田真央の母親・浅田匡子さんは幼少期にバレリーナになる夢を持っていたとのこと。
スケートではなくバレエをやっていたんですね!
競技は違えど、バレエもかなり大変なスポーツです。
浅田匡子さん自身もその厳しさを身をもって感じていたことでしょう。
しかし、家庭に事情でバレエを続けることが不可能になってしまいました…
泣く泣く夢を諦めた匡子さんは、母親になってから浅田真央と姉にもバレエを習わせ、その練習としてフィギュアスケートも習わせ始めました。
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そして浅田真央がフィギュアスケートの魅力に目覚めると「やりたいことをやらせてあげたい」と自信の夢であるバレリーナを強要せずにフィギュアスケートを優先させたそうです。
素敵な母親ですよね…
浅田匡子さんは姉と浅田真央に、こんな言葉を送っています。
「世の中には、好きなことをやれる子ばかりじゃない」
「勉強との両立はもちろん、家庭の事情で自分でお金を稼がなきゃいけない子も、病気やケガで思うように動けない子もいる。だから、スケートができることを当たり前に思っちゃいけない」
自身も家庭の事情でバレエを断念しているようなので、この浅田匡子さんの言葉はとても沁みます。
好きなことをしたくても出来ずに苦労や我慢を重ねた匡子さんの思いを浅田真央はひしひしと感じていたことでしょう。
だからこそ匡子さんも「やりたいことを全力でやらせたい!」と自身の夢を託したのでしょうね。
母親は厳しくも娘のスケートを全力で応援!教育方針がスゴイ!
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自身の叶わなかった夢を娘たちに託した浅田匡子さん。
そんな匡子さんは厳しくも優しく、浅田真央と姉・舞のスケート人生を支えていたといいます。
浅田匡子さんは自分と同じ「女」という運命のもと生まれてきた娘たちに「いかに生き残れる能力を身に着けさせるか」ということに熱を注いできました。
そのため、浅田匡子さんには「スーパーお母さん」という呼び名まで!
ここでは浅田匡子さんのスーパーお母さんぶりをチェックしてみましょう。
浅田匡子はスケートを優先するあまり毒親と言われたことも!?
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浅田匡子さんは浅田真央に3歳のころから体操やピアノ、バレエなど9つもの習い事をさせてきました。
浅田真央の可能性を広めるために始めた習い事ですが、フィギュアスケートは最後まで残ったそうですよ。
浅田匡子さんにとって浅田真央さんのフィギュアスケートライフは学校よりも優先したいものだったといいます。
そのため小学校の出席日数が足りないと学校に呼び出されるのはしょっちゅうで、そのたびに「娘の人生がかかっているんです」と頭を下げていたとのこと。
そして練習においては
「3回転ジャンプが飛べないと今日はご飯抜きだからね!」
とスパルタな一面を見せることも。
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こうした執着じみた厳しすぎる匡子さんの指導に世間では「毒親」と批判が殺到したようですが、本気で選手になることを意識していたらこれくらい厳しくないと才能は開花しませんよね?
浅田真央も匡子さんの気持ちを分かっていたでしょうし、家族のことは当人にしか理解できないでしょう。
兎にも角にも、浅田匡子さんは全身全霊で浅田真央のフィギュアスケートを応援していたということです。
浅田匡子が日本人嫌いだったタラソワコーチとの関係を修復したって本当?
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さて、浅田真央といえばバンクーバー五輪で師弟関係にあったタラソワコーチの存在も印象的ですよね。
実はタラソワコーチ、ある騒動をきっかけに日本人を2度と指導しないと怒りをあらわにし、大の日本人嫌いになっていたそうです。
もはや日本との関係を修復するのは無理だろうと誰もが思いましたが…
浅田匡子さんが自らロシアに足を運び直接交渉をしたことで事態は一変したのです。
浅田真央のための愛情や情熱にIOC関係者たちも驚いたそうですよ。
また、バンクーバー五輪渾身の演技「鐘」においてフィギュアスケートでは青色の衣装が勝ちやすいというジンクスがありましたが、浅田匡子さんは浅田真央に託した思いから「絶対に衣装の色は譲れない。真央の勝負色は赤」とタラソワコーチと話し合って決めたというエピソードまであるとのこと。
娘に対する熱い思いは国境を超えるんですね。
とても素敵なエピソードですよね。
浅田真央が21歳の時に母親が死去!長年病気を患っていたの?
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浅田真央を全力で優しく、時に厳しく支えた浅田匡子さんですが、現在は亡くなっています。
浅田匡子さんが死亡したのは2011年12月のことでした。
一体どんな病気で命を落としてしまったのでしょう…
ここでは浅田匡子さんを襲った病気や亡くなる前に娘たちとどのような生活を送っていたのか詳しくお届けしようとおもいます。
顔が浅黒くなり体調不良を噂されるように!
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浅田真央の母親・浅田匡子さんが亡くなったのは浅田真央が21歳のとき。
つまり2011年ですね。
当時匡子さんの死はすぐさまニュースになり様々なメディアで話題となっていました。
生前、匡子さんの顔色が悪いとみなさん心配していたみたいですね。
当時の顔色が分かる画像がコチラ。
画像引用元:https://orionfdn.org/asadamao-mother/
たしかにちょっと浅黒いというか…
どこか体調が悪いように見えますね。
浅田真央も母親が少しずつ弱っていることに気付いていたのではないでしょうか。
死因は何だったのか?
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浅田匡子さんは一体どんな病気で逝去してしまったのでしょうか。
一説によると、浅田匡子さんは肝硬変を患っていたのではないかといわれています。
匡子さんは2011年中ごろから闘病生活を送っていたそうです。
肝硬変もよく名前を聞く病気ですよね。
ですが、どのような症状があるのかとかどんな原因なのかあまり知らない気がしませんか?
浅田匡子さんを襲ったといわれている肝硬変について少し知識を取り入れましょう。
肝硬変とはどんな病気?原因や治療法は?
画像引用元:https://www.irasutoya.com/2014/08/blog-post_3.html
浅田匡子さんを襲ったといわれている肝硬変ですが、肝臓の細胞が壊れて機能を失ってしまう病気なんだそうです。
肝硬変は原因別に様々なタイプがあるようですが、原因不明の肝硬変もあるとのこと。
一般的に肝硬変はウイルスが原因だったり、アルコールが原因だったり肥満が原因だったりするようですが、浅田匡子さんがどの肝硬変のタイプなのかは明かされていないそう。
ただ基本的には長期にわたる慢性的な炎症が肝硬変の主な原因だといいます。
炎症を引き起こす原因として多いのは肝炎ウイルス感染でB型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルスが全体の8割を占めているみたいですね。
となると、浅田匡子さんも原因は明かされていないものの長期的に肝臓が炎症を起こしていたことが予想できますね。
ちなみに治療ほうについてですが、重傷者が完治するためには肝臓を移植する必要があるそうです。
なぜなのか?浅田真央の母親が娘からの移植を拒否!?
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肝硬変の治療には肝臓移植が必要だということでしたが、基本的に移植は血のつながりがある家族の肝臓を移植するのが望ましいみたいですね。
そのため浅田真央や浅田舞も匡子さんへの移植手術のために検査を受け、ドナーになるつもりだったとのこと。
大事な家族として当然ですよね。
しかし、匡子さんは娘達からの肝臓移植を拒否。
というのも、大事な娘の身体にメスを入れるのはやはり抵抗があったようなのです。
娘を思う気持ちが痛いほど伝わってきますね…
最終的に父親がドナーとなりましたが、適合せずに死因となる肝硬変を発症したことで匡子さんは亡くなってしまいました。
母親と娘たちの絆を感じる一方で、どこか切なくなるエピソードですよね。
浅田真央はカナダ・グランプリファイナル大会中に母親が急変!最期は間に合ったのか?
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浅田真央は母親のことを思い、当時グランプリファイナルのカナダに向けて調整を進めていたといいます。
しかしそんな折、匡子さんの容態が急変したと連絡が。
そのため欠場して連絡があったその日に緊急帰国をしているのです。
浅田真央にとって匡子さんがどれほど絶対的な存在か痛いほど分かりますね。
急いで母親のもとに向かった浅田真央ですが、匡子さんの最期には間に合わず。
悲しみの再会となってしまったそうです。
これは浅田真央にとってもかなりショックだったのではないでしょうか。
でも、匡子さんにはきっと娘の頑張りが伝わっていたことでしょう。
浅田真央にはどうか自身が選んだ道を悔やむことはしないでほしいですね。
母親の葬儀後に出した浅田真央のコメントは?
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浅田真央は匡子さんの死後、コメントを発表しています。
そのコメントの中では
「最初ケベックで連絡を受けたときは、今すぐにでも帰りたいという気持ちと、試合を欠場してもいいのか?という思いで複雑でしたが、すぐに帰国してよかったと思っています」
と葛藤の末の帰国について語られていました。
そして成田空港に到着してすぐ父親から匡子さんの逝去を知らせるメールが届いたそう。
病院に駆けつけ年度も「真央だよ!」と叫んだといいますが、匡子さんが目を開けることはなく…
そのまま帰らぬ人となってしまったと綴られています。
浅田真央のコメント全文はコチラのサイトに掲載されています。
気になる方はぜひ参考にしてみてくださいね。
浅田真央がどんな思いでこのコメントを綴ったのかと思うと…
胸が張り裂けそうです。
でも、天国に行っても匡子さんは彼女にとって大切な母親であることに変わりはないと思います。
浅田真央の母親が亡くなる半年前に語った娘たちへ伝えたかったことは何?
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そして匡子さんは自信が亡くなる半年前に週刊誌のロングインタビューにて娘達への切なる思いを語っています。
まず匡子さんいわく浅田真央は当時精神的なリフレッシュ調整が必要だったとのこと。
当時の浅田真央は心も体もずっと疲労困憊していたので、大会までの期間で思い切ってリフレッシュをすることが望ましいと匡子さんはずっと思っていたそうです。
そして同時に12歳からケガをしながらもずっと試合に出続けていたというのが浅田真央の最大の強みであるともコメント。
親子のように常に近くにいるとなかなか気付けないことですが、匡子さんは浅田真央が今までもどれほど頑張っていたのかしっかり分かっていたのですね。
画像引用元:https://kininaru-saishin-news.com/archives/10105
そして姉・舞が浅田真央に技術的にどんどん抜かされていくことで「もうスケートしなくない」とこぼした日のことについても語り、舞が家族から離れていた時期があったことや変わっていく姉と自分の在り方に真央が葛藤していたことも明らかになりました。
家族と姉・舞の関係は匡子さんの不調を機に修復したそうですが、最後には
「これからも姉妹で頼りあって生きていってほしいな」
と一言。
これが匡子さんの一番言いたかったことでしょうね。
スーパーお母さんと呼ばれた匡子さんにとって、娘たちが仲良く楽しく競技を続けていくことが何よりの望みだったのでしょう。
浅田真央の母親は生い立ちが壮絶!?職業が死因と関係している?
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では、浅田真央の母親・匡子さんはどんな生い立ちだったのでしょうか?
一部では匡子さんの死因である肝硬変には彼女の職業が関係しているというのですが…
匡子さんはどんな職業だったのか?
そして生い立ちが壮絶だといわれていますが、どんな人生を歩んできたのか?
匡子さんの過去に迫ってみようと思います。
若い頃に両親が他界!お金がなく苦労していた?
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浅田匡子さんの過去について調べると、決して裕福とはいえない家庭で育ったことが明らかになりました。
というのも、浅田匡子さんは父、母、姉との4人家族だったのですが彼女が12歳のときに父親が亡くなってしまいその8年後には母親までもが他界しているのです。
若くして両親を亡くしているんですね…
匡子さんが自身の夢であったバレエを続けられなかったのも、両親が亡くなってしまいお金がなかったからだといいます。
だからこそ、娘達には夢を諦めてほしくなかったのでしょう。
20歳で両親どちらも亡くなってしまうなんて、自分の立場に置き換えると将来の不安で押しつぶされそうです。
匡子さんも同じように自身の未来を不安に思っていたことと思います。
生活していくためにホステスをやっていたという噂が!真相は?
画像引用元:https://encount.press/archives/36297/
浅田真央の母親は過去にホステスとして働いていたという噂があります。
他にもスナックのママをやっていたという噂もありますが…
どちらも真相は定かではありません。
しかし、若くしてお金に苦しんでいたのならば水商売の道を選ぶことも充分ありえますよね。
可能性としてはありえますが、出処が定かではないようです。
それでも、匡子さんがとても優しく素晴らしい母親であったことに変わりはないですよね。
水商売だってれっきとしたお仕事。
誰にでもできる仕事ではないですし職業に対する偏見は無くしていきたいものですね。
岐阜県にある入船というお店で働いていたという情報も!
画像引用元:http://energydrink-flavor.seesaa.net/article/444679212.html
浅田真央の母・匡子さんはホステスとして働いていたという噂がありましたが、実は岐阜県の入船というお店で「留美子」という源氏名で勤務していたという具体的な情報まであるそうです。
しかし、当時の写真など何も確証が出てきていないのでこれも微妙な噂で…
源氏名だと同じ名前のホステスさんは多数存在するでしょうし、確証たる証拠は特にないのでまた信憑性に欠ける話題ですね。
当時の匡子さんの情報がもし追加されたらその際にはお知らせしようと思います。
浅田真央の両親は夜の世界で出会ったのか?
画像引用元:鑑定家ジョーティッシュ
また浅田真央の父親はホストとしてかなり名高い存在だったことで知られています。
30歳のときには独立して「カーネギー」というホストクラブ経営までしていたそうです。
景気がよく、年商1億円もの売り上げをたたき出していたという噂も。
そのため匡子さんと父親は夜の世界で、お客さんとホストとして出会ったといわれています。
もし匡子さんがホステスをやっていてお父さんのお店に遊びにいっていれば充分ありえる話ですよね。
これらのエピソードもあくまでも噂の範疇ですが、いずれにせよ匡子さんも浅田真央の父親もとても逞しく努力家であったことが分かります。
今後お父さんと匡子さんの馴れ初めについて更に情報が追加されればいいなと思いました。