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長澤まさみは、ドラマ・映画・CM・バラエティと、引っ張りだこの人気タレントですね。
あまり知られていない事ですが、その長澤まさみの父親は実はサッカー業界ではかなり有名な人だったのです。
サッカー選手として、また、監督としての名声と実績が尋常ではありません。
どのようにすごいのか、詳しく見ていきましょう。
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長澤まさみの父親は世間では意外と知られていなかったスゴイ人
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長澤まさみの父親は、長澤和明(ながさわ かずあき)といいます。
生年月日は1958年2月4日、出身地は静岡県清水市です。
静岡県と言えば、サッカーが盛んなことで有名な所ですね。
そういう所に生まれたからでしょうか、静岡県立清水東高校に就学時には『高校選手権』で準優勝を果たしています。
では、大学を卒業してからの、長澤和明のサッカーの経歴と実績を見ていきましょう。
元サッカー日本代表だった?
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日本にまだJリーグ(日本プロサッカーリーグ)が発足していない時期から、長澤まさみの父である長澤和明はサッカーの最高峰ワールドカップのサッカー日本代表選手に選ばれるほどの人物でした。長澤和明がまだ学生の頃になります。
この頃から、サッカー界では超が付く程の有名人で、サッカーが好きな人であれば、名前は知っているほどの人でした。最近のTwitterではありますが、サッカーファンであれば『知っていて当然の事』が世間では通用しなかったという事例がありましたので、引用しておきますね。
先日、自分より全てにおいて知識があると尊敬してた先輩とお話してた際、長澤まさみの父親が有名なサッカー選手だった事を知らなくて衝撃だった。
— 天海 (@amami_saya) September 26, 2018
では、どのようにすごい人なのかを、詳しく見ていきましょう。
サッカー選手としての経歴・活躍ぶりがスゴイ??
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長澤まさみの父・長澤和明は、東京農業大学を卒業後、1980年に『ヤマハ発動機』という会社に入社し、社会人リーグのサッカー部に入部します。
ヤマハ発動機のサッカー部は、『日本サッカーリーグ』に所属していましたので、長澤和明も日本サッカーリーグに参戦しています。
また、長澤和明はヤマハ発動機に入社する前の、1978年の学生時代にワールドカップの日本代表選手として選ばれているのです。1978年から1985年までの7年間という長期にわたりプレーするのですが、チームメイトの木村和司とのMF(ミッドフィールダー)の壮絶なポジション争いが起こり結果的には、9試合の出場にとどまりディフェンダーとして活躍しています。
その後、1989年、30歳の時にケガのため、惜しまれつつ現役を引退します。
豆知識:日本サッカーリーグと、Jリーグの違いは?
1965年から1992年まで、『日本サッカーリーグ』が存在しました。これは、日本のサッカーが世界に通用する位のレベルにするのが目的の団体で、大学や会社のサッカーチームもリーグ戦に参加をする目的で作られたものです。
それを土台にして、1993年から『日本プロサッカーリグ(Jリーグ)』が改めて発足します。こちらは名前の通り、プロの人たちが集まってリーグ戦に参加することを目的にしています。
現役引退後は監督業に転身?監督としての経歴もスゴイ?
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ケガのため、サッカー選手としての現役を引退した長澤和明ですが、その後は、監督としての第二の人生が始まります。
現役選手としてプレーしていた、ヤマハ発動機のサッカー部のヘッドコーチに就任した後、その2年後には指導者としての実力が評価され監督として就任します。そして、『ヤマハ発動機サッカー部』は、『ジュビロ磐田』に名称を変更します。
また、ジュビロ磐田に改名してから、わずか1年たらずで『日本プロサッカーリーグ(旧J1)』でチームを優勝に導くという快挙を成し遂げています。
さらにその翌年には、ジュビロ磐田を旧J1に昇格させているのです。これだけの短期間でチームを昇格させられる人はそうはいないのではないでしょうか。
ただ、その2年後に長澤和明はジュビロ磐田から去ってします事になります。一体何が起こったのでしょうか?
その理由は、「ハンズ・オフト」の人事異動にあったのです。
ハンズ・オフトと言えば、日本サッカーの歴史上名高い『ドーハの悲劇』の頃の監督で日本がワールドカップでも通用すると実証した人物なのです。
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ハンズ・オフトは、長澤和明に対し、監督を辞任しフロントをするように命じます。
あくまでも現場にいることを望んだ長澤和明は、ジュビロ磐田を去ることを決意します。
その後は、『Lリーグ鈴与清水FCラブリーレディース』、『本田技研工業サッカー部』、『ソニー仙台サッカー部』と監督を歴任します。
そして、『常葉立花高校』の監督に就任した4年後に、全国高校選手権で初出場するまでに育てます。常葉大浜松でも全国大会に出場。その後、『グランセナ新潟FC』や、『北越高』、母校でもある『静岡県立清水東高校』のヘッドコーチに就任します。
では、経歴を年代順にまとめてみましょう。
1989年に、サッカー選手としての現役を引退。同年、ヤマハ発動機のコーチに就任。1991年に、ヤマハ発動機の監督に就任。
1992年、ジュビロ磐田(ヤマハ発動機)が旧J1で優勝。1993年、ジュビロ磐田がJ1に昇格。
1995年に、Lリーグ鈴与清水FCラブリーレディースの監督に就任。
1997年に、本田技研工業サッカー部の監督に就任。
1999年に、ソニー仙台FCの監督に就任。
2001年に、常葉橘高校の監督に就任。その4年後の、2005年には、全国高校選手権に初出場に導く。浜大(現・常葉大浜松)の監督しても全国大会に出場した。グランセナ新潟FCの総監督をの後、昨季は北越高(新潟)で監督に就任。
2015年に、母校である、静岡県立清水東高校のヘッドコーチに就任。
2017年に、浜松フットボールアカデミーの中学生クラブ(ホワイトドラゴン)の総監督に就任。
豆知識:サッカーの『フロントって』何?
フットボールクラブには、大きく分けて2つのカテゴリがあります。現場とフロントといいます。現場は、サッカー選手・監督・コーチ・通訳など、サッカー場でプレイをする人達です。
一方、フロントは、フットボールクラブを運営していく人たちの事です。サッカー場以外が主な活動場所になります。監督は誰にするかの選定、新しい選手の人選などですね。
ジュビロ磐田の初代監督を務めたのは長澤和明?
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1993年に、ヤマハ発動機サッカー部は『ジュビロ磐田』に名称を変更します。
長澤和明は1991年にヤマハ発動機サッカー部に監督として就任していますので、『ヤマハ発動機サッカー部最後の監督』であり、『ジュビロ磐田の初代監督』ということになります。なかなか珍しいケースですよね。
『シャジアーノ岡山』の監督を務めたのは長澤和明?
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※長澤徹の写真です。
長澤和明は、『ジャジアーノ岡山』の監督も就任していたという噂があります。ですが、これは『長澤徹(ながさわ てつ)』の情報がと混同されて流されたもののようです。同じ苗字なので、間違ってしまったのでしょう。
サッカーの鬼!半端じゃないその実像は?
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※画像は、あくまでもイメージです
長澤和明は、通常は温厚な人柄なのですが、サッカーの事となると全く妥協しないモーレツ監督になるとの事です。その姿は、スゴクに情熱的とも言われています。
例えば練習試合の時でもその情熱は変わらず、あまりの激しさに、審判に退場を言い渡されています。しかし、スタンドからトランシーバーという文明の利器を使って、ベンチに指示を出すという始末です。ですが、これも見つかってしまい審判から注意を受けます。
また、長澤和明はベンチ後方のスタンドから、大声で指示を出してそれが審判の逆鱗に触れ一時試合が中断するという騒動になったとか。
サッカーに関しては、これほどまでに情熱的な人ですから、選手に対しても情熱的な指導をしていたのではないかと思われます。
選手の尻たたき役と言ったところでしょうか。妥協しないからこそ、厳しいのですが、その厳しさがないと、世界に通用する選手は育たないのでしょうね。
長澤まさみは父親(長澤和明)のせいでサッカー嫌いに?
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長澤まさみがまだ幼い頃、サッカー一筋の長澤和明は、娘との時間を作ることができなかったようです。
「一緒に遊んでくれない」として、父親を夢中にさせているサッカーに対して敵意を持つようになってしまいます。それが高じてサッカー嫌いになったといいます。
「私とサッカーと、どっちが大切なのよ」
と、まるで、夫婦喧嘩の中で出てきそうなセリフが聞こえてきそうですが、小さい女の子ですから、かわいらしいですね。
その後は、成長するに従い、長澤まさみも変わってきたようです。
父親が監督を務めていた高校が、全国高等学校サッカー選手権大会に初出場した時、長澤まさみは、選手全員に『ミサンガ』を送ったといいます。
長澤まさみの父親(長澤和明)の現在の職業は?
長澤和明は、2017年に『静岡県立清水東高校サッカー部』のヘッドコーチを退任しました。
中日新聞によると、同年12月より『浜松フットボールアカデミー』の中学生クラブ(ホワイトドラゴン)で総監督になっています。
2020年6月現在も、浜松フットボールアカデミーの公式ホームページには、『元日本代表 初代ジュビロ磐田監督 JFA S級ライセンス』という肩書で、長澤和明の名前が掲載されていますね。
参考資料:https://www.hamamatsufootballacademy.jp/home/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%81%AE%E7%B4%B9%E4%BB%8B/
まとめ
画像引用元:https://ameblo.jp/shiichan-beauty/entry-12075291515.html
日頃は温厚な人柄だけど、ひとたびサッカーの事となると、鬼のように厳しくなると言われている長澤和明。
若いころからワールドカップの日本代表選手としてアジア諸国と試合をしていた経験があるからこそ、世界との壁を肌で感じていたのではないかと思います。
「世界に通用するサッカー選手を育て、ワールドカップの本選で優勝したい」
そんな気持ちでやっているのではないでしょうか。
完璧なものを作るには、一切の妥協は許されないわけですから、周りから『鬼監督』と言われてしまうのだと思います。
長澤和明の監督としての実績を見れば、結果を出すには、厳しさが必要だという事も良くわかりますよね。
すでに還暦を迎えている訳ですが、丸くならずに、ひたすらに情熱的に生きてほしいと願いつつ、今回は筆御おかせていただきたいと思います。
最後までお読みいただい、ありがとうございました。